真夜中のハイウェイを、白昼夢のように進むセダン。運転席と助手席の窓を挟んで、飛び去るオレンジ。分かれ道を左に曲がると、内海に向かうらしい。きらきらと、矢印がゆっくり気味に点滅する。 繋いだスマートフォンから流れる今年のAOR。くるくると、大き…
君だけが、この世界の全てであると、思えていた倖せ。歳をとって、得るものが増えただけ、世界は不自由で、君は遠くになっていく。 自分でコントロールできる範囲がどんどん狭くなる。何も言えなくなって。君の面影だけを懐かしく思い出す。 (The world was…
学校でずっとマスクをしているあの人が鞄の中に持ち歩いているキャンディ。オーストラリアの友人に貰ったんだ、と少しはにかんだように笑って、緑色のラインの入った外包紙から、一つ丁寧に取り出して、手渡してくれる。 白くて滑らかな手、細い指、ゴールド…
なんとなく頭から離れない、昔の映画の光景がある。引っ越しのために、子供がお気に入りのおもちゃ達を段ボールに詰めて、ガムテープで蓋をする、短いシーン。居間か子供部屋と思われる部屋のフローリングを、庭に面した背の高い大きなガラス窓から、レース…
美術館のその部屋で、何分間立ち止っていただろうか。柔らかに天井の光を反射し、満月の光のようにかがやく、太い筆致。正月に行った、海の風景なのだろうか。象牙色の、光射す、広大な空間。 もう口惜しいという感情すら浮かんでこない。圧倒され、何度もゆ…
カシャカシャと小さな音を立てて、小さな銀色のディスクが、プラスチック製の小さな正方形の箱の中で回転する。明季(あき)が高校生だった15年程前は、この小さな箱から流れる音楽が、外出時の全てだった。 ガタン、ガタン、という規則的な音のオレンジ色の…
目の前で、小さく弧を描いて、小学生の頃に使っていた柄の部分が黄色の鋏が、まるで小さな虫のように動いていく。五分程度見つめ続けていると、レース織物のような、折り紙の飾りが、その作り主から裕一に手渡された。 「はい、七夕飾り。懐かしいだろ。」 …
洗面所の前で、小さな手鏡を、大きな鏡に向けると、背中の痕が映る。父も母も、私のことが嫌いで仕方なかったらしい。蚯蚓腫れのような、雷の閃光のような、罪の残骸が明示される。 私は小さな手の平を合わせ、ずっと祈っている。もう、誰も父母を傷つけませ…
警察に捕まって、牢屋で首筋に番号を入れられた。―― 128番。 5年間、愛しているひとには会えず、128番の刺青の痕だけを手で追いながら、強制労働に耐え抜いた。 牢屋から解放され、僕は今でも無実の罪だと思っているけれど、128番の刺青は少し薄くなっただけ…
隣の部屋に住むその人は、いつもベランダで煙草を吸っている。 ベルリンの壁が崩壊した日(1989年11月10日)のニュースをTVの前で食い入るように見詰めていたと言うその人に対して、私はぼんやりと覚えている(もしくは、その後にみた映像でその時リアルタイ…
植物の根。私のきた径。私の両親のきた径。 8月の例年に増して暑い日に、妹尾菜摘見は長野県の南アルプスに程近い町の、小さな木造の駅に佇んでいた。じわじわと鳴くセミの声、頬を通りすがる、時折涼しい風。 3泊分程の荷物を詰めた真っ黒な布のキャリーケ…
薄曇りの、空気の乾いた昼間。保積千都世は、引越しの荷造りをしていた。 シングルベッドの下に置いていた箱の中で、埃を被ったそれが、鈍く光った。 「千都世、これあげるよ。」 映画館の暗闇から出るときのような、余りに周囲が明るくて、輪郭が曖昧な、十…
「離れようと思ったことなんて、一度もないわ。なぜ、皆私たちが離れたいと思っていると考えているのかしら。」 彼女たちはきっと、そんな風に首を傾げたに違いない。 文字通り、生まれた時から、温子は哲史と一緒に居た。 母親同士が大学生の頃からの親友で…
―― もっと頭が良くなりたかった。 ぱしぱしぱしと、わたしの脳の中で繋がりゆく神経細胞。 どこまでも、拡がりゆくネットワークの、樹状の広野。 そんなイメージを抱えながら、眠りに落ちる午后二時。
雪深い僕らの街の、真冬の唯一つと言って良いであろう娯しみは、 その街には不具合な程に大きいレンタルビデオ店に行くことだった。 そう、それはまだインターネットも、DVDすら無かった頃だ。 僕も、僕の街の友人たちも、十歳にもならない小学生の頃から、…
ふいに、さりげなく腰を掴まれて、白線の内側に引き込まれる。 視界の左端に、チャコールのコートの肩がぐい、と現れる。 見上げた先に、薄く白い、冬の息。 その一メートル先に通り過ぎる、赤い自家用車。 どこまでも、続くような、錯覚を覚える。
外山晴子の、母親に関する最も旧い記憶は、おそらくパチンコ台に向かっている母だ。 晴子は三歳になったくらいか、パチンコ店のずらりと並んだ台の一つに面して、 しかし目の前とは別の中空を、ぼんやりと見ている母の姿である。 ―― 「はい、ハレちゃん、お…
(旧い友人から聞いた話。)三十歳を少し過ぎて、銀行での仕事に多少の行き詰まりを感じていた私は、 一年間の長期休暇を取って、アメリカ、ロスアンゼルスへ語学留学をしていた。 その時の私は、初めて祖国を長く離れ、とにかく新しい刺激を渇望していて、 …
背骨に迸る、薄くなった傷跡に触る。 最早、夢に見るだけになってしまった、過去に見た将来を思う。 あの時、背中に少しの違和感を覚えながらも、走ることを止めなかった、自分の決断を幾度となく反芻する。 それでも、走るべきだった。走りたかった。ひとつ…
夏の匂いがする。 君は黄色のクレヨンを持って。 画用紙一杯の向日葵を描く。 君の横顔は微かに笑っていて。 僕の方など見もしない。僕は水色のクレヨンを持って。 君の向日葵に青空を描く。 雲一つ無く。 言葉一つ無く。 君は僕など見ない。 見ているのは真…
眩暈。クラリ。ヒラリ。フワリ。 サングラス越しに見える、ギリギリまで短くしたスカート。 僕の手を取って。 ヒラリ、揺らぐ世界。 猫みたいな着地。 14段の階段の、その先に見える世界。
誰もが皆、歩いて行く道程。寂しくてどうしようもない時は、電話をして。
閉め切った真夏の部屋。たゆたう倦怠。無造作に伸びた真っ黒な髪。皺の入ったシャツ。 指にはマルボロ(赤)。 この胸を刺す衝動に、わたしはその袂に唇を寄せた。 ニコチンと、コーラみたいな夏の匂い。「邪魔だよ、ジョシコーセー。」 「だって堪らないん…
巧妙な罠を張って、貴方が引っ掛かるのを待っているのだけれど。 多分、貴方は仕掛に気付きもしないで 堂々と擦り抜けていくのでしょう。 『だって、私から云ったら、私の負けじゃない。』
ぱしゃり。30秒。 現れた私の笑顔はまだ少しひきつっている。(Sometimes only pictures will remember our good old days.)
遠雷の音がします。嵐が来ます。 机の下で毛布を被って、じっとしていればその内過ぎるでしょう。 あなたの大きな手なんて要りません。
貴方のトランキライザーなんて、全く御免だし、 呑まれてしまうのなんて、一瞬たりともお断りだ。でも、これからも僕は、貴方からの電話に出てしまう。 型落ちの携帯電話のボタンをなぞる親指。これが、『こいごころ』というものなのならば、 全くこの不公平…
ひとつ、我が儘を云っても良いかな。 君を包むその殻に瑕を付けたいんだ。 その柔らかい頬にさわって、静かに、静かに。
・・・何だろう、何かを一生懸命売っている声。 ああ、深夜のTVショッピングか。私の身体を抱き締める手が熱を帯びている。 規則正しい吐息。ああ、TV点けたままだったのだな。 明日は日曜日だっけ。 身体が重い。 ・・・・そんなにしたっけ。眠い。急速に冷…
大学の夏学期試験も終わりかけの金曜日、11号館の階段の下で、 めずらしい人を見かけた。(二週間振りだ。)ふと、こちらを見た彼は、気まずそうな様子も見せずに、手に持ったハイライトを再び口に付けた。 しなやかな指先。「・・・煙草、吸うんだ。」 「・…