008:パチンコ

外山晴子の、母親に関する最も旧い記憶は、おそらくパチンコ台に向かっている母だ。
晴子は三歳になったくらいか、パチンコ店のずらりと並んだ台の一つに面して、
しかし目の前とは別の中空を、ぼんやりと見ている母の姿である。


―― 「はい、ハレちゃん、お土産。」


土曜の早朝から何処かに出かけていった泰一は、昼前に起きだしてきた晴子に向かって、チョコレートとクッキー、そして小さなテディベアを差し出した。

「お土産?どこの?」

「うん、駅前のパチンコ屋で打ってきた。」


ありがとう、と小さな声で言って、晴子は目の前の些かチープな菓子と熊の縫いぐるみを改めて凝視する。
泰一曰く、クリスマスが近いので、景品にテディベアが入っていたとのことだ。
最近はパチンコ店もちょっとは洒落たことをする、などと満足気である。

今年二十七になる晴子の恋人、というか半ば同棲している泰一は、その名の通り、どこかいつも悠々とした雰囲気がある。
大学を出て直ぐに就職した晴子と違い、泰一は自分が所属していた研究室に残り、地球惑星物理学を専攻する半学生だ。
半、と称したのは、彼が優れた研究者として国から給与のようなものを得ているからである。
晴子は一度彼の現在の研究について、解説を求めたことがあるのだが、そもそもテーマとなっている文字列すら理解できず、
以来自ら聞こうとしたことはない。ただ、彼の泰然として、他人を大きく包み込むような姿勢が好きで、一緒に居る。


そんな泰一の長年の趣味がパチンコやスロット、競馬といったギャンブルである。
ただ、彼の言うとおり、それらは全て息抜きのようなもので、晴子が読書などをするような類であるらしく、
大勝ちもしないけれども、大負けもしない、中毒のようにのめり込まない付き合い方をしていた。
晴子も趣味がギャンブル、ときいて最初は眉を顰めたものの、そのような泰一のスタンスがここ数年の付き合いで全く変わらないため、
今は彼の言い分に納得している。


―― 要は確率論なんだよ。後は、いかにリスクをマネージするか、という精神的な強さかな。俺は、時給五千円を下回るような時はそこで終わりにするし、逆に一日で三万以上稼いだら、どんなに調子よくても帰る。そうすれば、良い付き合いが出来るものだよ。


以前淡々と、泰一は独白したことがある。


「あと、これ郵便受けに入ってた。」


と、これも何の蟠りも無く、泰一が手渡してきたのは、実に半年ぶりとなる母からの葉書だった。消印はマレーシアとなっている。
晴子を産んで数年も経たずに母は父と離婚し、晴子の親権を得て、近所のアパートで暮らし始めた。
当時の女性としてはまだ離婚は今よりも珍しく、母は相応の苦労を経て再就職して、晴子を大学卒業まで育てあげた。
晴子は一人娘として、性格も屈折せずに育ち、アルバイトも含め家の手伝いも早くからしていたものの、
大学に入学させた辺りから母は開放感というか、達成感というか、ちょっと解脱してしまって、
アジアやアフリカの途上国を支援するボランティアにのめり込んでいった。
このため、大学二年辺りから晴子は二人で暮らしていたアパートに殆ど一人暮らしのように住むようになった。
母は家賃こそ卒業まで払ってくれたが、勤めていた会社を早期退職し、一年の九割以上を海外での民間支援活動に充てるようになったのである。


マレーシアの川の風景写真が映った絵葉書には、短く、相変わらず元気にやっているということと、
今取り組んでいる井戸掘りのプロジェクト(現在怒涛の勢いで経済成長を遂げているマレーシアに、未だに井戸が必要な村があるというのは多少の驚きであったが、)が予定よりも長引きそうであるため、
年末に日本に戻るのは無理である、といったことが書かれていた。


「ハレちゃんのお母さんは、すごいなあ。」


葉書を一読して、泰一がのほほんと感想を述べる。泰一は晴子や、晴子の母親の人生を哀れまない。
むしろ、自由に生きてきた二人を羨ましいとすら考えている節もある。彼のたくさんある美点の一つである、と晴子は思う。


「そういえば、私の小さい頃、お母さんも私を連れて良くパチンコに行っていたみたい。私、何となく覚えているもの。」


ただ、晴子が覚えている店内の風景は、ほぼ無音である。母が小さい自分を自宅に置いていくことが心細く、
しかしながら店内の度を越した騒音で娘の耳が悪くなってしまってはならない、と多分耳栓をさせていたのだろう。
晴子の目には、微動だにせずに、ここではないどこかを探るように台の斜め上の辺りを見つめている母だけが映っていた。


「ねえ、パチンコってやったことがないから良く分からないのだけれど、手も殆ど動かさずに打てるものなの?」


ふと、当時の記憶が蘇り、晴子はテーブルの反対側に座ってコーヒーを飲み始めた泰一に訊いた。


「ああ、最初玉を送り出すところまでやったら、後はハンドルに手を置いてるだけで何をしても結果は大して変わらないよ。本当は違反だと思うけれど、百円玉を挟んで、手ぶらで打っている人も居るくらいだし。」


パチンコには、何かを独りでじっくり考えたいときに行くのだ、と泰一は言う。
耳栓をすれば、周りの音楽も喧騒も気にならないし、喫茶店のように追い出されるような雰囲気になることもない。
しかも、ある程度は負けないように打とうとするので、そのための考え事が並走することで、彼は主たる考え事に一層集中できるのだ、と続けた。


それでは、と晴子は想像する。晴子が三歳頃といえば、父親との離婚が成立しかけで、
母のある意味派手な人生の中でも、突出して辛い時期だっただろう。
幼子を抱え、途方に暮れるでもなく、きっと母は次に踏み出すべきステップを冷静に検討するために、パチンコに行っていたのだ。
あの、中空に漂う目つき。


幼稚園にも通っていない子供を連れて、パチンコをするなど、若くて馬鹿な母親だと他人は思っただろう。
しかし、それは本当は正反対なのだ。母はいつも真剣に、晴子との暮らしを考えていたのである。
疑問が解け、納得したように黙りこくっている晴子を認め、泰一はずずっと残りのコーヒーを啜った。
母親の行動を上辺では批判しながら、心から愛している、ということが見て取れる晴子を、泰一は快く感じる。


「ハレちゃんも、今度一緒に行ってみる?」


低く、穏やかな声が、何とはなしに尋ねる。


「そうだね。私も、ゆっくり考え事をしに行こうかしら。」


テディベアの両脚をいじりながら、晴子は静かに答える。
この頃は若い女性客も多いからか、可愛い景品も増えたしね、と泰一は頷く。
あら、私は現金が一番良いと思っているのに、と彼の現実的な恋人が少し笑って返す。


「ビギナーズラックに。」

二人はカチン、とコーヒーマグの口で乾杯した。