027:電光掲示板

真夜中のハイウェイを、白昼夢のように進むセダン。
運転席と助手席の窓を挟んで、飛び去るオレンジ。
分かれ道を左に曲がると、内海に向かうらしい。
きらきらと、矢印がゆっくり気味に点滅する。

繋いだスマートフォンから流れる今年のAOR
くるくると、大きな螺旋を描いてインターチェンジ
右上に、ぼうっと光るブリッジ。

ばっちりマスカラを載せた、運転席からぽつぽつと
光の降りる高速道を見詰める焦げ茶色の目。
ハンドルを握るハードジェルの爪先。
金色の細いチェーンネックレスに、
道の両脇のオレンジの光が一瞬載って、後ろに消え去っていく。

朝焼けがみえる前に埠頭について、
真冬の真っ白の息を吐きながら、
保温水筒に入れてきたブラックコーヒーを飲む予定だ。

年上の彼女は、何も言わずに、まだ真っ暗な海を見ながら、
勝手に何かを考え、納得し、何だか気持ちよさそうに
朝日が昇っていく瞬間を愉しむのだろう。

強めの風が、ネックレスと合わせた耳元の細長い金色の
ピアスをしゃらしゃらと揺らすその景色を、
僕は黙って鑑賞し、熱いコーヒーを飲み干す。

帰りの運転は僕が代わり、彼女はやっと、
助手席で短い眠りに就くだろう。

I burn for you.

026:The World

君だけが、この世界の全てであると、思えていた倖せ。
歳をとって、得るものが増えただけ、世界は不自由で、
君は遠くになっていく。

自分でコントロールできる範囲がどんどん狭くなる。
何も言えなくなって。
君の面影だけを懐かしく思い出す。

(The world was mine.)

025:のどあめ

学校でずっとマスクをしているあの人が鞄の中に持ち歩いているキャンディ。
オーストラリアの友人に貰ったんだ、と少しはにかんだように笑って、
緑色のラインの入った外包紙から、一つ丁寧に取り出して、手渡してくれる。

白くて滑らかな手、細い指、ゴールドの細いリング、
アルファベットの入った白いキャンディの包み紙、薄黄色のキャンディ。

学校の廊下に差し込む白い光と共に、この一瞬を、いつまでも、覚えているのだ、
と私の自意識が話しかける。

024:ガムテープ

なんとなく頭から離れない、昔の映画の光景がある。
引っ越しのために、子供がお気に入りのおもちゃ達を段ボールに詰めて、
ガムテープで蓋をする、短いシーン。
居間か子供部屋と思われる部屋のフローリングを、庭に面した背の高い大きなガラス窓から、
レースのカーテンを伝って、冬の午後の日差しが緩く照らしている。

思い出す度に、少し、哀しいような、ノスタルジーを覚える。

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大学四年の卒業式が終わり、三月下旬。
裕一と儀は、パンダ柄の立方体となった引っ越し荷物のジャングルの中で、
共同生活(ルームシェア)最後の朝食を共にしている。

床に置いた段ボール箱の仮机に、最寄りのコンビニで買ってきたパンとコーヒー。
四年弱もルームシェアをした仲にあって、特に改めて話すようなことはなく、
朝食は黙々と二人の胃袋に収まり、半分開け放った窓から、
涼やかな風が二人の頬を撫で、反対側の窓から抜けていく。

四月から、裕一は都内で就職、儀は郊外にキャンパスのある大学院に進学するため、
自然とルームシェアは解消することとなった。
互いに荷物は少ない方かと思っていたが、この間の生活で自然と洋服やら雑貨、
家電が増えてしまい、引っ越し業者を頼んだうえで、レンタカーでそれぞれの新居に
ものを運ぶ段取りだ。

「業者、10時だっけ?」

パンの袋とアイスコーヒーのプラスチックカップをコンビニのレジ袋に纏めながら、
儀が裕一に確認する。
四年弱暮らして、息をするように気の利く、良い奴だったなと、
数百回目だか数千回目だかの同じ感想を覚えながら、
裕一はジーパンの膝を押さえて立ち上がる。

「うん。俺、11時にレンタカー取りにいくから、もし時間掛かってたら、
 申し訳ないけど、俺の荷物もみてて。」

パンダの箱はリビングの南北に二分して積み上げられており、南側が儀、北側が裕一。
今日は引っ越し業者の運び出しが終わったら、互いにスーツケース1つ分程度の
生活用具を持って、最初は比較的近くの裕一の新居に行き、荷受けをしてから、
県境を跨いで儀の新居までドライブ、同じく業者から荷受けをする予定だ。
全て終わったら、すっかり日は暮れているだろう。

長い、長い、最後の一日。

じきに引っ越し業者が二人組で小さなトラックで現れ、ものの十分程度で、
南北に分けられた二人分のパンダの箱を積み込んでいった。
箱を取り違えないように、儀の分のものには青いシールが貼られている。
裕一の引っ越し先までは、車で20分も掛からないだろうが、引っ越しのトラックは、
これから一度近くの事務所に立ち寄り、儀の分だけ別のトラックに積み替え、
裕一の引っ越し先に向かうとのことで、11時半くらいに荷受けをすることになっている。

真っ新になった2Kのアパートのフローリングを、裕一は手のひらで撫でる。
ゆっくりと上る春の日差しが、カーテンも取り払った窓の形に床を切り取っている。

儀は、コンビニのアイスコーヒーの最後の一口を飲み終え、ごろん、と
控え目な大の字で床に転がった。11時まで、後15分。

―― 思えば、二人で卒業旅行も行かなかったな。

四年間、互いにガールフレンドの気配もなく、ただ同じ部屋で気儘に暮らした。
儀は3年からは大学の研究室に所属し、実験で多忙になったため、食事を共にする
ことも減ったし、研究室に泊まってくることも多くなった。
3年の冬からは裕一の就職活動もピークを迎え、リビングに置いたホワイトボードで
ごく簡単に予定を交換するだけで、相手の姿も見ない週もあった。

互いに引っ越しを意識するようになるまで、何となくそのまま、
のんびりと暮らしてきてしまったのだ。

「あのさ、何もなくなって、あー、楽だし楽しかったなーって思うよな。」

窓からの日差しに気持ちよさそうに目を細めながら、儀が口に出す。11時まで、後1分。

「家から何もなくなる、って人生の中で多くても片手くらいしか経験しないだろうな。」

裕一はゆっくりと立ち上がり、レンタカー、借りてくる、と、まだ寝っ転がっている儀に言いおいて、コンバースの黒のスニーカーを履いてアパートから出ていく。
リビングにはもう、2つのスーツケースとコンビニの袋しかない。

近くのレンタカー屋で最安値のセダンに少なくなった荷物を積み込み、
アパートの鍵を閉め、まずは鍵を返しに不動産屋に寄る。
裕一が運転し、儀は名残惜しそうにアパートの部屋のあった3階を眺めながら、
助手席に座る。

―― ドライブは、互いに運転免許を取りたてのときに、海を越える橋を
           渡りにいったな。

裕一も最後にアパートの部屋のドアに運転席から一瞥をくれ、
ゆっくりとアクセルを踏み出した。今頃、儀のパンダの段ボール箱は、
積み替えられて県境に向けて走り出しただろうか。

セダンの狭い空間に並ぶと、何とはなしに緊張する気がする。
儀は、何を見るでもなく、助手席の窓からぼんやりと外を見ている。
桜は、満開まで後数日というところか。春の日差しは優しく、全てが幸せな空間にみえる。

「今度は一人暮らしだから、これまでのところより、間取りが狭いんだよ。」

沈黙に負けたように、裕一が話し出す。

「誰も俺が居ないうちに冷蔵庫に食料や酒を入れてくれる訳でもないし、最初は不便しそう。」

そうだね、と儀は静かに微笑む。

「まあ、一生会えなくなる訳でもなし、俺、たまに学部のキャンパスにも出てくるから、その時は裕一の部屋寄らせてよ。」

―― そうだ、たかが大学を卒業するくらいで、何かがいきなり不可逆に
   変わってしまう訳ではないのだ。

ほころび始めた桜の花も相俟って、何かとセンチメンタルな気分になる自分を、裕一は少し恥じた。
住む場所くらいしか、変わらないじゃないか。

11時半。裕一の新居に着き、地階の客用駐車場に車を停め、エレベーターで4階に上がる。
最寄り駅までは10分程歩くが、その分、相場よりは安めで、キッチンや風呂が広めに作られている。

昨日受け取っておいた鍵で開けると、再びの、何もない部屋。

息をつく間もなく、引っ越し業者のトラックが再び現れ、裕一のパンダの段ボール箱を部屋の真ん中に下ろし、書類にサインを貰って、慌ただしく帰っていった。
今日は、裕一や儀のような引っ越しが、何件も入っているのだろう。

儀に手伝ってもらい、寝室とリビング、洗面所にざっくりと箱を分け、
帰って寝ることだけは出来るように、布団と枕、タオルなど最低限の洗面用品だけ箱から出し、一旦新居を後にする。通販で買ったベッドは明後日届く。

再びセダンのエンジンを掛け、今度は儀が運転を代わり、少し長めの、1時間弱の行程。
変わり映えのしない街中の下道を走り、大きな川を一本越えて、隣県に入る。
少し道路脇に一軒家と緑が増えたかという程度で、変わらない風景。
儀が四月から通う大学院の広大なキャンパスの脇の道路を抜け、商店街を脇目に四階建てのアパートに到着する。
去年の春にできた新しい建物らしい。

「この辺、殆どうちの大学関連の人しか居ないらしくて、ここの部屋も2、3年で入れ替わるみたいだよ。」

アパートの一階部分の住民用駐車スペースにするりと車を入れながら儀が解説する。
大学院の研究室と、商店街と、アパートの往復で、研究に没頭するには良いよね、と儀は微笑む。

裕一のときと同じく、スーツケースを転がしながら階段を使って2階に上がり、
ガチャリと鍵を開けると、裕一の部屋よりは広めの1DKががらんと広がる。
午後2時半を少し過ぎたあたりか。足もとから天井近くまでの大きなガラス戸がベランダの手前にあり、ふんわりとした穏やかな光がベージュのフローリングに落ちている。

引っ越し業者が運ぶ荷物は、確か3時ごろに到着するのだったか。
儀が先に靴を脱いでスーツケースとともに部屋に上がる。裕一もそれに続く。
また、午後の光が射すだけの、何もない部屋。

スーツケースをクローゼットの中に一先ず入れて、何となくフローリングの真ん中に座り込む。
業者が来るまで、後20分程度か。
胡坐をかいた儀が、穏やかな表情で部屋の中を見渡す。

「そういえばさ、大学から笹刈ってきて、七夕の飾りやったり、花屋から買ってきた
 コニファーにクリスマスの飾り付けしたりしたよな。」
「儀、そういうとこ謎にマメだったよな。自分の部屋の窓にも何か飾ってたし。」

手持無沙汰に耐えかねて裕一は立ち上がり、大きなガラス戸からベランダ越しに隣の
一軒家の庭を眺める。良く手入れされた小さな庭に、日本犬が座っていて、小さな梅の木がある。
クリーム色寄りの白い毛皮のその日本犬は、裕一が見ているのにも気付かず、
ゆっくりと自分の耳の後ろを掻いたりしている。

ぼんやりと、午後の時間が過ぎる。

特に何もしないうちに、業者のトラックが到着し、青いシールの貼られた儀の立方体の
段ボール箱が次々と部屋の真ん中に積み上げられた。午後3時半。

先ほど裕一の部屋でやったように、手分けして儀の寝室とキッチンのあるリビング、洗面所に段ボールを仕分けし、ざっと取り敢えず必要なものだけ荷解きする。

これが終われば、裕一が車を返しながら、自分の新居に戻る段取りだ。
午後6時までにはレンタカー屋に行かなければならない。

―― 自分と儀らしい、シンプルな別れだな。

キッチン用品を出し終えた段ボールを畳みながら、裕一は思う。
儀は、最後の一個のパンダの箱を、寝室に持っていくところだ。元々自室に飾っていた飾りだかおもちゃだかが入っているのか、儀の腕の中の箱から、ゴロゴロとした音が聞こえる。
実家に居たころからずっと飾っているもの達なのではないか。物持ちが良く、妙に丁寧な男だ。
裕一は、儀の背が寝室に消えるのを見送る。

程なくして儀は、片手に何かを持って寝室から出てくる。
小さなプラスチック製の熊だ。

「これ、裕一に。」

緑色のプラスチックの熊が、ずいっと目の前に差し出される。
手伝いの礼にしては随分と使い古されているし、裕一はこういうものを集めたりしないのは儀も知っている筈だが、神妙な雰囲気の儀の表情に押され、裕一も無言でそれを受け取った。
確か数年前に流行ったコレクターズ商品だ。

「段ボール開けたら、何か裕一のあげたくなってさ。何だったら新居に飾ってよ。」

素直に寂しそうな表情の儀。先刻、一生会えなくなる訳でもなしと言ったのは誰だったか。

午後4時を少し過ぎて、カーテンの無いガラス戸から入る光は、もう少しで夕陽に変わりそうだ。

「じゃ、これで俺は帰るね。また来月辺りどっかで近況報告がてら飲もうよ。」

おう、と儀は言って、その場の勢いなのか、アメリカ人のような軽いハグをする。

最初、キャンパスの生協前で会ったときの儀の印象を裕一は思い出す。

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再び川を渡り、夕陽を車体に受けながら、裕一は一人車を走らせる。
ダッシュボードには、儀に貰った熊の人形が置かれている。
寂しさを紛らわせるように、携帯電話からGlobal Top50のプレイリストを流し、
春先の街を、まだ住んで初日の自分の部屋に帰る。
車を返したら、コンビニによってビールでも買おう。
部屋についたら、一応儀に報告の電話でもするか、と考えながら、明日からの生活が
どんなものなのかを想像してみる。

二週間後の四月からは会社員だ。学生の頃の生活と何が変わるのか、
何が変わらないのか、そこはかとない不安と楽しみ。

まずは、四月のいつ儀と会うか、電話したときに決めよう、とダッシュボードの
緑の熊を見詰めながら思い立ち、裕一は信号待ちからゆっくりと車のアクセルを踏み込んだ。

023:パステルエナメル(絵の具の一色、象牙色)

美術館のその部屋で、何分間立ち止っていただろうか。
柔らかに天井の光を反射し、満月の光のようにかがやく、太い筆致。
正月に行った、海の風景なのだろうか。
象牙色の、光射す、広大な空間。

もう口惜しいという感情すら浮かんでこない。圧倒され、何度もゆっくりと瞬く。
一緒に行った海へのドライブから帰って、彼女が研究室でこの作品を描いていたことは知っていた。
僕は、その彼女のキャンバスに向かう後ろ姿を一枚、写真に撮った。

滑らかな、淡いクリーム色の空と、それを映して、灰色が連なる海面を、
彼女は黙って、長い時間眺めていた。
僕が貸してあげたコートを背負って、その風景を全身で記憶する。
彼女を眺めながら、僕は半分冷えてしまったブラックのホットコーヒーを啜った。
もう帰ろう、と声を掛けなければ、日没がその象牙色を完全に打ち消すまで、
彼女はその場で「記録」を続けていただろう。

100号はあるだろうか、巨大なキャンバスに彼女を通して再現された、光の海。
昔の貴族がこぞって集めた貝殻の裏側のような、淡い淡い、かがやき。
学生の文化祭展示の中で、別格中の別格。

展示室の真ん中で立ち尽くす僕に向かって、彼女が歩いてくる。
はにかんだ、柔らかな笑顔。
彼女を抱き締めたい。その創作の在処に触れて、僕にもヒントが欲しい。
決して実行しない欲望を押さえつけ、僕は、彼女と象牙色の海の写真を撮るべく、
構えたカメラのシャッターを、ぐっと押し込む。

022:MD

カシャカシャと小さな音を立てて、小さな銀色のディスクが、
プラスチック製の小さな正方形の箱の中で回転する。
明季(あき)が高校生だった15年程前は、この小さな箱から流れる音楽が、
外出時の全てだった。

ガタン、ガタン、という規則的な音のオレンジ色の電車に乗り、
その窓からやけにきらきらと光る大きな川面を見詰め、
折って短くした制服のスカートと紺色のソックスとスニーカー。
耳に詰めたイヤホンから流れる、全て覚えられる程に繰り返し聴き続けたバンドのアルバム。
駅で会う学校の友人、両脇に広がる畑を横目に、高校への道を、小走り気味に歩く。
その背景に、いつも小さく聴こえる音楽。

冬の大掃除の際に、実家の戸棚の中から、ケースに律儀に収められたMDの束を見つけた。
買ってきた儘の箱に丁寧に仕舞われたMDプレーヤーも、大学生まで使っていた自室の棚から
見つかった。
細いサインペンで書かれた、コピーされたCDのタイトル、曲名。
今でも歌えるな、と明季は微笑んだ。

実家に帰るときにしか乗らなくなった、ガタン、ガタン、という規則的な音の
オレンジ色の電車の座席に座り、窓の外を流れる低めの背丈の建物群をぼんやり眺める。
MDプレーヤーの充電式電池は生きていて、バックパックにケースごと入れてきた二十枚程度のMDの束から、
青色のディスクを取り出し、プレーヤーに入れる。
ビニル部分が擦れてくたびれたイヤホンを耳に刺し、それと繋がったリモコンのプレイボタンを押す。

カシャカシャと小さく音がし、耳に良く馴染んだ、英国のロックバンドのヒットチューンが聴こえてくる。

ディスクのケースの文字は、明季のものではなく、当時仲良くしていた軽音部の男子のものだ。
ひと月に一回、気に入っているアルバムのコピーを交換した。

―― 田辺君、どうしているだろうか。

恋心ですらなかった、十何年前の友情について、車窓からやけにきらきらと光る朝方の川面を眺め、
明季はぼんやりと考える。

(アパートの最寄り駅まで、大きな川を三本越える。)

MDプレーヤーから流れる一つのアルバムをリピートで聴き続けながら、
このまま電車の終点まで行ったら、県境を越えて、海のみえる街まで行けるなと、
何度も考えて、一度も実行したことがない。

いかにも高校生男子が書いたような字体の英単語が、ケースに大人しく並んでいる。
几帳面な田辺君は、曲のタイトルを一々入力しており、リモコンの画面に、何分かごとに流れていく。
「自分が、(貴方の)特別なひとだったらよかったのに」
という、明季の気に入りの歌詞が、耳奥を掠っていく。

このディスクを何度も何度も聴いていたあの頃から、明季の世界はおそろしく広がっている。
もう、思いつけば英国にも、アフリカにだって行くことが出来る。
音楽だって、サブスクリプションサービスで、新しい曲も旧い曲も、
地球の裏側の誰かの作ったプレイリストだって、思いついたときに、携帯電話から不自由なくアクセスできる。
何か国語かを勉強し、話し、日本語でない言語を母語とする友人もいる。

軽音部の生徒が皆そうしていたように、田辺君もベースのケースを背負って、
廊下で、少し笑って制服を着た明季に話掛ける。
県内の大学に進学したのだっけ、と卒業後の淡い記憶を辿る。
最後に会ったのは、大学二年生のときの同窓会だ。そのときも、最近気に入っている音楽の話をした。

ガタン、ガタン、という規則的な音で電車は進み、車窓から見える川は二本目。
カシャカシャと小さな音を立てて小さなディスクは周り、明季はまたバックパックを探って
二枚目のMDを取り出そうとする。

「でも過ぎたことに怒らないでと、君が言ったのが聞こえたんだ」
とディスクから流れる英語のボーカルが歌っている。

この夏の週末は、このMDをリピートしながら、今度こそ、
この電車の終点の街まで行こうと明季は決意する

021:はさみ

目の前で、小さく弧を描いて、小学生の頃に使っていた柄の部分が黄色の鋏が、
まるで小さな虫のように動いていく。
五分程度見つめ続けていると、レース織物のような、折り紙の飾りが、
その作り主から裕一に手渡された。

「はい、七夕飾り。懐かしいだろ。」

大学に入学してから、ルームシェアを始めて一年と少し。
七月の初週はまだ梅雨が明けず、じわじわじめじめと暑い。
シェアメイトの日村儀(ただし)は、工学系学科の器用な男だ。

―― 大学の庭に笹、なかったっけな。

フローリングに胡坐をかいて、手の大きさに合わない小さな鋏を扱っていた儀は、
つぶやきながら、すっと立ち上がる。
その七夕飾りを窓の日に透かして確かめていた裕一は、Tシャツの胸の上に
飾りを載せ、フローリングに寝転んだ。
エアコンを点けることを惜しがって、窓だけを開け放っている2Kのフラットの床は、
空中の水分を集めて少し冷たく、何となく湿っぽい。

「裕一も何か飾り作んなよ。それと短冊。」

寝転んだ手の先辺りに、黄色の鋏と「ようちえんおりがみ」の袋が静かに置かれる。
ご丁寧なことに、儀は小学校まで使っていた「おどうぐばこ」をそのまま実家から
引っ越し荷物に入れて上京してきた。
育ちが良く、妙なところが真面目で、「善く生きようとしている」人だと、
裕一は思っている。

埼玉の実家を出たかったが、大した収入もなく、大学生協でみたルームシェア募集の
張り紙をみて、四月の初めに儀に初めて会った。
今どき、SNSでもなく、今や古いインターネット掲示板でもなく、大学生協の張り紙。
一方で、流行りの白い大きめのハイゲージコットンTシャツを、テーパードのチノに重ねて、
足もとはアメリカからの輸入物のコンバースという、大学一年生にしては垢抜けた出で立ち。

一目で、裕一は儀を気に入っていた。
それから一年、互いに干渉しすぎない、気持ちの良い生活を送っている。

料理の作り方やアイロンの掛け方(そもそも、Tシャツにまでアイロンを掛ける生真面目さ)で、
器用な男だと感心していたが、七夕飾りを作る奴だったとは。

裕一は鋏に手を伸ばし、のろのろと上半身を起こす。
居間の二人掛けテーブルに鋏と折り紙を置き、その前の椅子に神妙に座る。

「この飾り、どうやって作るの。」

―― 子供の頃、やらなかったのか、と意外だという表情を見せつつ、
儀は冷蔵庫から出してきたキンキンに冷えたIPAのビール缶をコトっと音をさせてテーブルに置き、
裕一の反対側の椅子を引いて腰掛ける。

線線の綺麗な手がテーブルの上に伸び、折り紙を一枚取り上げる。

「こうやって、何回か折って、後は適当に鋏で三角とか、丸とか四角とか、
 切っていけばいいんだよ。」

三角に何回か折ったピンク色の紙を、裕一に手渡す。

裕一は、黄色の鋏を手に、神妙な顔をして、ピンク色の七夕飾りの作成に取り掛かる。
儀は、それを満足気に眺め、IPAの缶を開け、口を付ける。

一瞬の静寂。

この空気が何とも心地よいと、裕一は思う。

「そのビール、ちょっとだけ俺にもちょうだい。」

手許のピンクの折り紙に、大小さまざまな穴を切り開けながら、裕一は羨ましそうに儀を見る。
うむ、と頷き、後ろの棚の上に載っているガラスのコップに缶からビールが注がれる。

―― 苦労なく、愛されて育ってきたんだろうな。

ビールを注ぐ手を見ながら、その丁寧さに裕一はもう数百回を超えるであろう同じ感想を抱く。
七夕の短冊に、儀は何を願うのだろう。

「なあ、お前、短冊に何書くの。」

「世界平和。」

何でもないことのように、ビール缶に口づけながら儀が返す。

「あ、後、この暮らしが続きますように、かな。」

気付かれないように、裕一は目を見開き、そして微笑する。
自分との暮らしを、儀は気に入っているのだ、という嬉しい確認。
完成したレース飾りの隙間から覗き見る儀の表情は、いつも通り穏やかで、少し、笑っている。