023:パステルエナメル(絵の具の一色、象牙色)

美術館のその部屋で、何分間立ち止っていただろうか。
柔らかに天井の光を反射し、満月の光のようにかがやく、太い筆致。
正月に行った、海の風景なのだろうか。
象牙色の、光射す、広大な空間。

もう口惜しいという感情すら浮かんでこない。圧倒され、何度もゆっくりと瞬く。
一緒に行った海へのドライブから帰って、彼女が研究室でこの作品を描いていたことは知っていた。
僕は、その彼女のキャンバスに向かう後ろ姿を一枚、写真に撮った。

滑らかな、淡いクリーム色の空と、それを映して、灰色が連なる海面を、
彼女は黙って、長い時間眺めていた。
僕が貸してあげたコートを背負って、その風景を全身で記憶する。
彼女を眺めながら、僕は半分冷えてしまったブラックのホットコーヒーを啜った。
もう帰ろう、と声を掛けなければ、日没がその象牙色を完全に打ち消すまで、
彼女はその場で「記録」を続けていただろう。

100号はあるだろうか、巨大なキャンバスに彼女を通して再現された、光の海。
昔の貴族がこぞって集めた貝殻の裏側のような、淡い淡い、かがやき。
学生の文化祭展示の中で、別格中の別格。

展示室の真ん中で立ち尽くす僕に向かって、彼女が歩いてくる。
はにかんだ、柔らかな笑顔。
彼女を抱き締めたい。その創作の在処に触れて、僕にもヒントが欲しい。
決して実行しない欲望を押さえつけ、僕は、彼女と象牙色の海の写真を撮るべく、
構えたカメラのシャッターを、ぐっと押し込む。