024:ガムテープ

なんとなく頭から離れない、昔の映画の光景がある。
引っ越しのために、子供がお気に入りのおもちゃ達を段ボールに詰めて、
ガムテープで蓋をする、短いシーン。
居間か子供部屋と思われる部屋のフローリングを、庭に面した背の高い大きなガラス窓から、
レースのカーテンを伝って、冬の午後の日差しが緩く照らしている。

思い出す度に、少し、哀しいような、ノスタルジーを覚える。

*************************************************

大学四年の卒業式が終わり、三月下旬。
裕一と儀は、パンダ柄の立方体となった引っ越し荷物のジャングルの中で、
共同生活(ルームシェア)最後の朝食を共にしている。

床に置いた段ボール箱の仮机に、最寄りのコンビニで買ってきたパンとコーヒー。
四年弱もルームシェアをした仲にあって、特に改めて話すようなことはなく、
朝食は黙々と二人の胃袋に収まり、半分開け放った窓から、
涼やかな風が二人の頬を撫で、反対側の窓から抜けていく。

四月から、裕一は都内で就職、儀は郊外にキャンパスのある大学院に進学するため、
自然とルームシェアは解消することとなった。
互いに荷物は少ない方かと思っていたが、この間の生活で自然と洋服やら雑貨、
家電が増えてしまい、引っ越し業者を頼んだうえで、レンタカーでそれぞれの新居に
ものを運ぶ段取りだ。

「業者、10時だっけ?」

パンの袋とアイスコーヒーのプラスチックカップをコンビニのレジ袋に纏めながら、
儀が裕一に確認する。
四年弱暮らして、息をするように気の利く、良い奴だったなと、
数百回目だか数千回目だかの同じ感想を覚えながら、
裕一はジーパンの膝を押さえて立ち上がる。

「うん。俺、11時にレンタカー取りにいくから、もし時間掛かってたら、
 申し訳ないけど、俺の荷物もみてて。」

パンダの箱はリビングの南北に二分して積み上げられており、南側が儀、北側が裕一。
今日は引っ越し業者の運び出しが終わったら、互いにスーツケース1つ分程度の
生活用具を持って、最初は比較的近くの裕一の新居に行き、荷受けをしてから、
県境を跨いで儀の新居までドライブ、同じく業者から荷受けをする予定だ。
全て終わったら、すっかり日は暮れているだろう。

長い、長い、最後の一日。

じきに引っ越し業者が二人組で小さなトラックで現れ、ものの十分程度で、
南北に分けられた二人分のパンダの箱を積み込んでいった。
箱を取り違えないように、儀の分のものには青いシールが貼られている。
裕一の引っ越し先までは、車で20分も掛からないだろうが、引っ越しのトラックは、
これから一度近くの事務所に立ち寄り、儀の分だけ別のトラックに積み替え、
裕一の引っ越し先に向かうとのことで、11時半くらいに荷受けをすることになっている。

真っ新になった2Kのアパートのフローリングを、裕一は手のひらで撫でる。
ゆっくりと上る春の日差しが、カーテンも取り払った窓の形に床を切り取っている。

儀は、コンビニのアイスコーヒーの最後の一口を飲み終え、ごろん、と
控え目な大の字で床に転がった。11時まで、後15分。

―― 思えば、二人で卒業旅行も行かなかったな。

四年間、互いにガールフレンドの気配もなく、ただ同じ部屋で気儘に暮らした。
儀は3年からは大学の研究室に所属し、実験で多忙になったため、食事を共にする
ことも減ったし、研究室に泊まってくることも多くなった。
3年の冬からは裕一の就職活動もピークを迎え、リビングに置いたホワイトボードで
ごく簡単に予定を交換するだけで、相手の姿も見ない週もあった。

互いに引っ越しを意識するようになるまで、何となくそのまま、
のんびりと暮らしてきてしまったのだ。

「あのさ、何もなくなって、あー、楽だし楽しかったなーって思うよな。」

窓からの日差しに気持ちよさそうに目を細めながら、儀が口に出す。11時まで、後1分。

「家から何もなくなる、って人生の中で多くても片手くらいしか経験しないだろうな。」

裕一はゆっくりと立ち上がり、レンタカー、借りてくる、と、まだ寝っ転がっている儀に言いおいて、コンバースの黒のスニーカーを履いてアパートから出ていく。
リビングにはもう、2つのスーツケースとコンビニの袋しかない。

近くのレンタカー屋で最安値のセダンに少なくなった荷物を積み込み、
アパートの鍵を閉め、まずは鍵を返しに不動産屋に寄る。
裕一が運転し、儀は名残惜しそうにアパートの部屋のあった3階を眺めながら、
助手席に座る。

―― ドライブは、互いに運転免許を取りたてのときに、海を越える橋を
           渡りにいったな。

裕一も最後にアパートの部屋のドアに運転席から一瞥をくれ、
ゆっくりとアクセルを踏み出した。今頃、儀のパンダの段ボール箱は、
積み替えられて県境に向けて走り出しただろうか。

セダンの狭い空間に並ぶと、何とはなしに緊張する気がする。
儀は、何を見るでもなく、助手席の窓からぼんやりと外を見ている。
桜は、満開まで後数日というところか。春の日差しは優しく、全てが幸せな空間にみえる。

「今度は一人暮らしだから、これまでのところより、間取りが狭いんだよ。」

沈黙に負けたように、裕一が話し出す。

「誰も俺が居ないうちに冷蔵庫に食料や酒を入れてくれる訳でもないし、最初は不便しそう。」

そうだね、と儀は静かに微笑む。

「まあ、一生会えなくなる訳でもなし、俺、たまに学部のキャンパスにも出てくるから、その時は裕一の部屋寄らせてよ。」

―― そうだ、たかが大学を卒業するくらいで、何かがいきなり不可逆に
   変わってしまう訳ではないのだ。

ほころび始めた桜の花も相俟って、何かとセンチメンタルな気分になる自分を、裕一は少し恥じた。
住む場所くらいしか、変わらないじゃないか。

11時半。裕一の新居に着き、地階の客用駐車場に車を停め、エレベーターで4階に上がる。
最寄り駅までは10分程歩くが、その分、相場よりは安めで、キッチンや風呂が広めに作られている。

昨日受け取っておいた鍵で開けると、再びの、何もない部屋。

息をつく間もなく、引っ越し業者のトラックが再び現れ、裕一のパンダの段ボール箱を部屋の真ん中に下ろし、書類にサインを貰って、慌ただしく帰っていった。
今日は、裕一や儀のような引っ越しが、何件も入っているのだろう。

儀に手伝ってもらい、寝室とリビング、洗面所にざっくりと箱を分け、
帰って寝ることだけは出来るように、布団と枕、タオルなど最低限の洗面用品だけ箱から出し、一旦新居を後にする。通販で買ったベッドは明後日届く。

再びセダンのエンジンを掛け、今度は儀が運転を代わり、少し長めの、1時間弱の行程。
変わり映えのしない街中の下道を走り、大きな川を一本越えて、隣県に入る。
少し道路脇に一軒家と緑が増えたかという程度で、変わらない風景。
儀が四月から通う大学院の広大なキャンパスの脇の道路を抜け、商店街を脇目に四階建てのアパートに到着する。
去年の春にできた新しい建物らしい。

「この辺、殆どうちの大学関連の人しか居ないらしくて、ここの部屋も2、3年で入れ替わるみたいだよ。」

アパートの一階部分の住民用駐車スペースにするりと車を入れながら儀が解説する。
大学院の研究室と、商店街と、アパートの往復で、研究に没頭するには良いよね、と儀は微笑む。

裕一のときと同じく、スーツケースを転がしながら階段を使って2階に上がり、
ガチャリと鍵を開けると、裕一の部屋よりは広めの1DKががらんと広がる。
午後2時半を少し過ぎたあたりか。足もとから天井近くまでの大きなガラス戸がベランダの手前にあり、ふんわりとした穏やかな光がベージュのフローリングに落ちている。

引っ越し業者が運ぶ荷物は、確か3時ごろに到着するのだったか。
儀が先に靴を脱いでスーツケースとともに部屋に上がる。裕一もそれに続く。
また、午後の光が射すだけの、何もない部屋。

スーツケースをクローゼットの中に一先ず入れて、何となくフローリングの真ん中に座り込む。
業者が来るまで、後20分程度か。
胡坐をかいた儀が、穏やかな表情で部屋の中を見渡す。

「そういえばさ、大学から笹刈ってきて、七夕の飾りやったり、花屋から買ってきた
 コニファーにクリスマスの飾り付けしたりしたよな。」
「儀、そういうとこ謎にマメだったよな。自分の部屋の窓にも何か飾ってたし。」

手持無沙汰に耐えかねて裕一は立ち上がり、大きなガラス戸からベランダ越しに隣の
一軒家の庭を眺める。良く手入れされた小さな庭に、日本犬が座っていて、小さな梅の木がある。
クリーム色寄りの白い毛皮のその日本犬は、裕一が見ているのにも気付かず、
ゆっくりと自分の耳の後ろを掻いたりしている。

ぼんやりと、午後の時間が過ぎる。

特に何もしないうちに、業者のトラックが到着し、青いシールの貼られた儀の立方体の
段ボール箱が次々と部屋の真ん中に積み上げられた。午後3時半。

先ほど裕一の部屋でやったように、手分けして儀の寝室とキッチンのあるリビング、洗面所に段ボールを仕分けし、ざっと取り敢えず必要なものだけ荷解きする。

これが終われば、裕一が車を返しながら、自分の新居に戻る段取りだ。
午後6時までにはレンタカー屋に行かなければならない。

―― 自分と儀らしい、シンプルな別れだな。

キッチン用品を出し終えた段ボールを畳みながら、裕一は思う。
儀は、最後の一個のパンダの箱を、寝室に持っていくところだ。元々自室に飾っていた飾りだかおもちゃだかが入っているのか、儀の腕の中の箱から、ゴロゴロとした音が聞こえる。
実家に居たころからずっと飾っているもの達なのではないか。物持ちが良く、妙に丁寧な男だ。
裕一は、儀の背が寝室に消えるのを見送る。

程なくして儀は、片手に何かを持って寝室から出てくる。
小さなプラスチック製の熊だ。

「これ、裕一に。」

緑色のプラスチックの熊が、ずいっと目の前に差し出される。
手伝いの礼にしては随分と使い古されているし、裕一はこういうものを集めたりしないのは儀も知っている筈だが、神妙な雰囲気の儀の表情に押され、裕一も無言でそれを受け取った。
確か数年前に流行ったコレクターズ商品だ。

「段ボール開けたら、何か裕一のあげたくなってさ。何だったら新居に飾ってよ。」

素直に寂しそうな表情の儀。先刻、一生会えなくなる訳でもなしと言ったのは誰だったか。

午後4時を少し過ぎて、カーテンの無いガラス戸から入る光は、もう少しで夕陽に変わりそうだ。

「じゃ、これで俺は帰るね。また来月辺りどっかで近況報告がてら飲もうよ。」

おう、と儀は言って、その場の勢いなのか、アメリカ人のような軽いハグをする。

最初、キャンパスの生協前で会ったときの儀の印象を裕一は思い出す。

******************************************************************

再び川を渡り、夕陽を車体に受けながら、裕一は一人車を走らせる。
ダッシュボードには、儀に貰った熊の人形が置かれている。
寂しさを紛らわせるように、携帯電話からGlobal Top50のプレイリストを流し、
春先の街を、まだ住んで初日の自分の部屋に帰る。
車を返したら、コンビニによってビールでも買おう。
部屋についたら、一応儀に報告の電話でもするか、と考えながら、明日からの生活が
どんなものなのかを想像してみる。

二週間後の四月からは会社員だ。学生の頃の生活と何が変わるのか、
何が変わらないのか、そこはかとない不安と楽しみ。

まずは、四月のいつ儀と会うか、電話したときに決めよう、とダッシュボードの
緑の熊を見詰めながら思い立ち、裕一は信号待ちからゆっくりと車のアクセルを踏み込んだ。