080:ベルリンの壁

隣の部屋に住むその人は、いつもベランダで煙草を吸っている。


ベルリンの壁が崩壊した日(1989年11月10日)のニュースをTVの前で食い入るように見詰めていたと言うその人に対して、
私はぼんやりと覚えている(もしくは、その後にみた映像でその時リアルタイムで見ていたかのように記憶が塗り替えられている)に過ぎない。
それくらいの、歳の差がある。

新宿に程近い、東京の中では西側に位置するそのアパートに引っ越してきたのは、
去年の春のことだった。1Kに一人暮らしの私に対して、その人は奥さんと小さなお子さんの3人暮らし。
ベランダ以外で見掛けたのは、多分引越しの挨拶に行ったその日だけだったと思う。

仕事から帰ってきて、缶ビールを片手に遠くの都庁などのビル群を見るのが、
私の日々の息抜きで、その人は、お子さんが眠ってしまってから、
家の中では吸えない煙草をベランダで吹かしていることに気付くのに多くの時間は掛からなかった。

安普請と感じるには十分のそのアパートは、ベランダの隣家との垣根が低く、お互い、顔だけが見える。
最初は気まずく思ったものの、少しずつ、会話を交わすようになった。

軽い自己紹介から始まり、なぜ東京で暮らしているのか、近所で気に入っている店はどこか、
学生の頃は何をしていたか、どんな本が好きか。
毎日10分にも満たない話を繰り返し、その時間が少し楽しみにすらなるまで、余り時間は掛からなかった。

その人は、印刷会社の営業をしていて、「色々な会社のロゴの入った封筒を作る仕事」をしているという。
映画を観るのが好きで、私には仕事の合間や休日に観た最新作の話をよくしてくれる。
私は、大学に行きながら、文房具店でアルバイトをしていて、お店で起こったちょっとした面白い話や、
最近聴いている音楽の話をする。

その人は、奥さんとは映画館で知り合って(新宿にある行きつけの映画館の職員だそうだ)、2年ほどの交際を経て結婚し、
今年の初めに女の子が産まれたらしい。可愛い我が子の健康を害してはならないと、その時からベランダで喫煙を始めたとのことだ。
私は、付き合って3年目になる同級生の彼氏が居て、良くある慣れきった関係を心地よく思いながらも、
何となく、大学を卒業したら、別れてしまうのではないかと感じている、と話した。

その人は、駅近くの珈琲店のローストが気に入っていて、ネルドリップとの相性が如何に良いか、と説明してくれる。
「本当は、そこで煙草も吸えると良いのだけれど、コーヒーの香りを損なうといけないから、もちろん禁煙でね。」
「仕方なく僕は、そこのローストを買ってきて、自分で淹れている。」
そう言って、ベランダの垣根越しに、私にもマグを渡してくれた。

10月の下旬、既にベランダは寒く、新宿の白と赤の光の集合体は夏よりもクリアにみえる。
その人の煙草の先端が赤く点滅し、少し白い吐息とともに、より真っ白な煙が中空に上って、少しの匂いを残して消えていく。
私はマグから立ち上るコーヒーの香りを吸い込みながら、深呼吸する。
胸より少し下の高さにあるベランダの垣根を、乗り越えることがないから、この時間が一番心地好い。


私とその人を東西に分ける、背の低い壁が、この時間を冷たく、静かに、守ってくれている。