017:√(ルート)

植物の根。私のきた径。私の両親のきた径。


8月の例年に増して暑い日に、妹尾菜摘見は長野県の南アルプスに程近い町の、小さな木造の駅に佇んでいた。じわじわと鳴くセミの声、頬を通りすがる、時折涼しい風。
3泊分程の荷物を詰めた真っ黒な布のキャリーケースを横に、途方もなく、菜摘見は立ち尽くした。


菜摘見の、5年間付き合った恋人との結婚式を2ヶ月後に控え、先週、ふいっと母親が居なくなった。
より具体的には、母が長年付き合っていた、父以外の男性と、ふらりとスペインのバルセロナに逃げてしまったのだ。


残された走り書きを読んで、父親の成は妙に冷静だ。
来年、定年となる成は、妻が消えた次の日も、いつものように床から起き、いつもの時間に会社に出掛けていった。帰りは、駅ビルで自分と菜摘見に、弁当を買ってきた。


狼狽えてしまったのは、寧ろ娘の菜摘見の方で、流石に会社は休まなかったものの、次の週末の今日、逃げるように父母の出身地であるこの町を目指した。


駅の改札を降りてからは、取り敢えずの目的地として、母の「父以外の恋人」の手掛かりのある市役所に行くためのバスに乗車する。
盛夏の長野らしい爽やかな日差しが車の窓から入り込み、キャリーケースを照らしている。


母、莉津子は家を出ていく際に、菜摘見の部屋のドレッサーの中に、一枚の写真と簡単なメモを残していた。

写真に写っているのは、高校生の母、父、そして、やや日本人離れした綺麗な容貌の、見慣れない男の子。
後ろにそれぞれの名前が記されており、左から、莉津子、(父親の名前である)成、柊壱、と書いてある。

母が出ていく直前に書き残していったとみられるメモには、菜摘見が今目指している市役所の厚生課の住所・電話番号と、「伊藤柊壱」とだけ記されていた。
莉津子は、娘がこの写真とメモをみれば、そこに行くであろうことを予見していたようだ。


バスが市役所の手前でゆっくりと停車した。旧いコンクリート造の小さな建物であるその市役所の厚生課で、その「伊藤さん」の名前を告げ、自らの名前を述べると、介護業務を担当しているという女性が現れる。
どうやら、伊藤柊壱はその女性に長めの海外旅行に出てくると言って、先週から自宅の鍵を預けているようである。


「莉津子さんに良く似ているわね。娘さん、、、かしら。」


田舎らしい、といえば良いのか、少し押し付けがましい好奇心を表情に出しつつ、その担当者は丁寧に話してくれる。
聞いてみると、莉津子は最近、月に一度程度は、柊壱の介護の手伝いという形で、ここを訪れていたようだ。
初老にさしかかろうとする見知らぬ女性と柊壱の関係に、ただならぬ雰囲気を感じていたのか、ついに登場した娘の菜摘見に、その女性は柊壱の自宅への案内を笑顔で申し出た。

主人の不在に、勝手に家に入って良いのか、甚だ疑問に思いつつも、柊壱自身が何かこうした事態に備えて言いつけてあったのかもしれない、などと都合の良いことを考えつつ、菜摘見は、市の職員の巡回などに用いられているという軽のヴァンに乗り込む。

市役所の女性は木内、という苗字だと自分のことを簡単に紹介しつつ、慣れた手つきで車を発進させた。


莉津子は、大学を卒業してからずっと、通訳業を続けている。父の成と結婚して、一人娘の菜摘見が生まれても、比較的ブランクなく仕事に復帰し、出張で家を空けることも屡だった。
だから、菜摘見も父親も、母がどこに外出・外泊していても何ら気にも留めなかったのである。


ヴァンは、市役所から10分ほど市街地を走って、商店街の近くにある県営のアパート前に、足許の路面に少しの振動を受けながら停まった。
入口の門から一番近い棟の階段を上がった2階、202号室に「伊藤」と小さな表札が掲げられている。


ここまでくる道すがら、木内さんは、伊藤柊壱という男性について、知りうる限りの情報を教えてくれた。


伊藤柊壱、62歳。県立高校を卒業後、県内の大学に進学した後、地元の中学校で図書教諭を続けていた。
生来少し身体が悪く、定年を間際に、市から軽度の要介護認定を受け、月に一度自宅に市の職員が訪問している。
線の細い印象の、静かな男性で、一切のトラブルを聞いたことがない。
長期の旅行で家を空けることは今回が初めてで、驚いている、と木内さんは述べた。


預けられていた家の鍵を差し込み、かちゃり、と旧式のシリンダー錠が空く。綺麗に片付けられた、装飾性が排された部屋に、二人で靴を脱いで上がる。
柊壱も莉津子の親族による訪問を予期していたのか、寝室に使っているのであろう和室の押入れの前に、大きなダンボール製のケースが置かれていた。一応、木内さんの許可を取り、菜摘見がケースを静かに開ける。



―― 現れたのは、一冊の卒業アルバムと、きちんと詰め込まれた、優に500通は超えそうな大量の手紙だった。


「そういえば、伊藤さん、ポストだけは毎日自分で見に行っているみたいで、一度も何かがポストに溜まっているのを見たことがなかった気がするわね。」
木内さんが、物の少ない部屋にはやや異様にも見える手紙の束を眺め、声を漏らした。
流石に内容を読むわけにもいかず、しかし簡単に宛名だけ確かめる。
案の定、それは、莉津子から柊壱に対する手紙の山であり、柊壱から莉津子に出せなかった手紙(菜摘見が産まれてから2年分程のようだ)も交ざっていた。

そして、母親が残した写真と同じ場所であると思われる、高校の卒業アルバム。3年分のモノクロの写真群に、ざっと目を通す。


40年以上前の、莉津子と、成と、伊藤柊壱。
莉津子はその町からこのアルバムに写っている県立の高校に通っていた。成と柊壱と莉津子はその町からの同級生のようだ。
当時10クラス以上あるのは当たり前であった高校で、3人のクラスは当然余り同じではなかったのか、そのうちの2人だけでも、同じ写真に写っているのは数枚で、これのみで3人の当時の関係を推定するのは難しい。



「・・・ここの高校は、ここから近いですか?」

アルバムを繰りながら、菜摘見は木内さんに問いかける。今日は既に夕刻に差し掛かっているため、この町の駅前に宿を取り、翌日電車で向かうこととした。
単純な興味が、やや親しげな同情に変わった木内さんは、菜摘見を駅前の小さなビジネスホテルに送り届けることを自ら申し出てくれた。



その町から5駅隣の駅、そこからまた市営バスに20分程揺られ、3人の通った県立高校は、今もそこにある。
ただ、写真で見たような建物は一切なくなっており、3人の背景となっていた建物は今はどこにも見当たらない。ただ、新しい、一部がガラス張りとなったコンクリート校舎だけがある。
肩がけのバッグから、莉津子が残していった写真を取り出して改めて見ると、三人の仲睦まじい当距離の姿が、少しはにかんだ笑顔で写っている。


背が高く、瞳が漆黒の、大人びた成。まだ、少女らしい、美しい莉津子。
莉津子とは頭一つくらいしか背の変わらない、全体的に成と比べて色素が薄い印象の柊壱。


莉津子は、いつから、柊壱の恋人なのだろうか。


莉津子は、なぜ、成と結婚したのだろうか。


父親の利発で律儀な性格を考えると、成は莉津子と柊壱の関係に、薄らと、しかし長いあいだ、勘づいていたのではないだろうか。


数々の、決して答えを得ることは出来ない質問が、菜摘見の喉の奥に現れては、微かな痛みを残して沈んでいく。
菜摘見は、高校の校門の前で一人、深く、息を吸った。


***


2日間の不在の後、東京の自宅に帰ると、成はまた、弁当を買って、菜摘見を待っていた。どこに行っていた、などは成は一切聞かない。焦っている様子もない。
父親は黙って、簡易式の湯沸しポットから、気に入りの焙じ茶を淹れ、菜摘見の目の前にも茶碗を置く。


まだ豊かだが、白髪が多く混ざるグレイに近い頭髪。高校の頃から、年月を経て少し濁り、落ち着いた黒い双眸。真っ直ぐな、背の高い、年齢の割にはがっしりとした長身。今、会社役員の成は、いかにも成功した壮年の男性である。

成は静かに莉津子を待っている。二人の間に菜摘見をもうけた、莉津子と柊壱の間にはなかった時間を莉津子と過ごした自負が、
成に穏やかな冷静を与えている。
菜摘見に成と柊壱の関係性は想像し難いが、きっと幼馴染以上に、大切な間柄なのではないか。
成は、柊壱との関係を大切にしている莉津子が好きで、愛しているのだ。


「お母さんは、多分、帰ってくるよ。」


熱い焙じ茶に口をつけながら、菜摘見は静かに話しかける。


「ああ、多分、いつか、」


食卓に英字の経済新聞を載せて読みながら、老眼鏡越しに、成が応えた。


想像するに、莉津子は、柊壱がもう余り永く生きられないと感じているのだろう。
太陽が眩しくどこまでも陽気なバルセロナの海は、海外旅行が好きな莉津子が、最後に柊壱と見たい場所なのだ。日本に帰ってからも、莉津子は柊壱を看取るまで、柊壱の傍らを離れないだろう。



柊壱からの手紙は、莉津子の私書箱を使って受け取られており、それから3日後くらいに、柊壱のアパートでみた手紙と、ほぼ同じくらいの束が、莉津子が洋服やスーツケースなどを仕舞っている自宅近くの小さな貸し倉庫から見つかった。
菜摘見も成も、それを読むようなことはしない。莉津子と柊壱の、大切な時間は、二人だけのものだ。


***



菜摘見は、今度結婚する恋人を、一生愛し続けることが、無いのかもしれない、と考える。
それでも菜摘見は、今自分が好きな人と、一緒に居つづけることは出来る。それで良いと思う。

10月の結婚式までに、莉津子は帰って来ないかもしれない。
しかし、菜摘見も成も、それに腹を立ててはいない。
莉津子が、愛し続けた柊壱と、今からでは取り戻せないかもしれない膨大な時間を、少しでも埋められるよう、二人は願っている。