018:ハーモニカ

薄曇りの、空気の乾いた昼間。保積千都世は、引越しの荷造りをしていた。
シングルベッドの下に置いていた箱の中で、埃を被ったそれが、鈍く光った。


「千都世、これあげるよ。」


映画館の暗闇から出るときのような、余りに周囲が明るくて、輪郭が曖昧な、十四歳頃の記憶。
その日、大きな湖以外、何もない故郷を、出て行ったその人がくれた、
ちょうど中学生の少女の掌に載る大きさの楽器。

その人は、これを奏でたことがあったのだろうか。きらきらとした銀色のハーモニカ。
フォークソングなんて、もう疾うに流行は過ぎ去っていた頃。
それは、小学校で貰うような丸みのある温かなかたちのものではなく、
細身で鋭利な、線の細い印象を放っていた。

千都世は、その人との時間を土に埋めるように、日の光を良く反射するその楽器を、直ぐに目の届かない場所へ仕舞った。


十数年の時間を経て、千都世は、鈍色になったハーモニカの、良く読めないドイツ語の刻印に、静かにくちづける。

A、の音が、千都世以外誰もいない1DKの部屋に、掠り傷を付けて、昇っていく。