020:合わせ鏡

洗面所の前で、小さな手鏡を、大きな鏡に向けると、背中の痕が映る。
父も母も、私のことが嫌いで仕方なかったらしい。
蚯蚓腫れのような、雷の閃光のような、罪の残骸が明示される。

私は小さな手の平を合わせ、ずっと祈っている。
もう、誰も父母を傷つけませんように。
この世界で、優しく生きていけますように。
誰も、罪を背負いませんように。

背中が映る小さな鏡の中で、私の背中から小さな羽が生えますように。
少しでも、この世を統べる神様に近付きますように。

019:ナンバリング(番号を振ること)

警察に捕まって、牢屋で首筋に番号を入れられた。
―― 128番。

5年間、愛しているひとには会えず、128番の刺青の痕だけを手で追いながら、
強制労働に耐え抜いた。

牢屋から解放され、僕は今でも無実の罪だと思っているけれど、
128番の刺青は少し薄くなっただけだ。

愛していたひとは、5年のうちに別の家族を築いていた。
もう会いに行くこともない。首筋をなぞると、128番の痕が浮かび上がる。

僕が週末に会っている女の子は、128番の刺青に丁寧にキスしてくれる。
舌が這う、一瞬の官能。
もう、愛しているひとではないけれど、僕は丁寧に彼女の唇にキスを返す。
幻影の肢(Phantom Limb)をいつまでも追いかけている。

080:ベルリンの壁

隣の部屋に住むその人は、いつもベランダで煙草を吸っている。


ベルリンの壁が崩壊した日(1989年11月10日)のニュースをTVの前で食い入るように見詰めていたと言うその人に対して、
私はぼんやりと覚えている(もしくは、その後にみた映像でその時リアルタイムで見ていたかのように記憶が塗り替えられている)に過ぎない。
それくらいの、歳の差がある。

新宿に程近い、東京の中では西側に位置するそのアパートに引っ越してきたのは、
去年の春のことだった。1Kに一人暮らしの私に対して、その人は奥さんと小さなお子さんの3人暮らし。
ベランダ以外で見掛けたのは、多分引越しの挨拶に行ったその日だけだったと思う。

仕事から帰ってきて、缶ビールを片手に遠くの都庁などのビル群を見るのが、
私の日々の息抜きで、その人は、お子さんが眠ってしまってから、
家の中では吸えない煙草をベランダで吹かしていることに気付くのに多くの時間は掛からなかった。

安普請と感じるには十分のそのアパートは、ベランダの隣家との垣根が低く、お互い、顔だけが見える。
最初は気まずく思ったものの、少しずつ、会話を交わすようになった。

軽い自己紹介から始まり、なぜ東京で暮らしているのか、近所で気に入っている店はどこか、
学生の頃は何をしていたか、どんな本が好きか。
毎日10分にも満たない話を繰り返し、その時間が少し楽しみにすらなるまで、余り時間は掛からなかった。

その人は、印刷会社の営業をしていて、「色々な会社のロゴの入った封筒を作る仕事」をしているという。
映画を観るのが好きで、私には仕事の合間や休日に観た最新作の話をよくしてくれる。
私は、大学に行きながら、文房具店でアルバイトをしていて、お店で起こったちょっとした面白い話や、
最近聴いている音楽の話をする。

その人は、奥さんとは映画館で知り合って(新宿にある行きつけの映画館の職員だそうだ)、2年ほどの交際を経て結婚し、
今年の初めに女の子が産まれたらしい。可愛い我が子の健康を害してはならないと、その時からベランダで喫煙を始めたとのことだ。
私は、付き合って3年目になる同級生の彼氏が居て、良くある慣れきった関係を心地よく思いながらも、
何となく、大学を卒業したら、別れてしまうのではないかと感じている、と話した。

その人は、駅近くの珈琲店のローストが気に入っていて、ネルドリップとの相性が如何に良いか、と説明してくれる。
「本当は、そこで煙草も吸えると良いのだけれど、コーヒーの香りを損なうといけないから、もちろん禁煙でね。」
「仕方なく僕は、そこのローストを買ってきて、自分で淹れている。」
そう言って、ベランダの垣根越しに、私にもマグを渡してくれた。

10月の下旬、既にベランダは寒く、新宿の白と赤の光の集合体は夏よりもクリアにみえる。
その人の煙草の先端が赤く点滅し、少し白い吐息とともに、より真っ白な煙が中空に上って、少しの匂いを残して消えていく。
私はマグから立ち上るコーヒーの香りを吸い込みながら、深呼吸する。
胸より少し下の高さにあるベランダの垣根を、乗り越えることがないから、この時間が一番心地好い。


私とその人を東西に分ける、背の低い壁が、この時間を冷たく、静かに、守ってくれている。

017:√(ルート)

植物の根。私のきた径。私の両親のきた径。


8月の例年に増して暑い日に、妹尾菜摘見は長野県の南アルプスに程近い町の、小さな木造の駅に佇んでいた。じわじわと鳴くセミの声、頬を通りすがる、時折涼しい風。
3泊分程の荷物を詰めた真っ黒な布のキャリーケースを横に、途方もなく、菜摘見は立ち尽くした。


菜摘見の、5年間付き合った恋人との結婚式を2ヶ月後に控え、先週、ふいっと母親が居なくなった。
より具体的には、母が長年付き合っていた、父以外の男性と、ふらりとスペインのバルセロナに逃げてしまったのだ。


残された走り書きを読んで、父親の成は妙に冷静だ。
来年、定年となる成は、妻が消えた次の日も、いつものように床から起き、いつもの時間に会社に出掛けていった。帰りは、駅ビルで自分と菜摘見に、弁当を買ってきた。


狼狽えてしまったのは、寧ろ娘の菜摘見の方で、流石に会社は休まなかったものの、次の週末の今日、逃げるように父母の出身地であるこの町を目指した。


駅の改札を降りてからは、取り敢えずの目的地として、母の「父以外の恋人」の手掛かりのある市役所に行くためのバスに乗車する。
盛夏の長野らしい爽やかな日差しが車の窓から入り込み、キャリーケースを照らしている。


母、莉津子は家を出ていく際に、菜摘見の部屋のドレッサーの中に、一枚の写真と簡単なメモを残していた。

写真に写っているのは、高校生の母、父、そして、やや日本人離れした綺麗な容貌の、見慣れない男の子。
後ろにそれぞれの名前が記されており、左から、莉津子、(父親の名前である)成、柊壱、と書いてある。

母が出ていく直前に書き残していったとみられるメモには、菜摘見が今目指している市役所の厚生課の住所・電話番号と、「伊藤柊壱」とだけ記されていた。
莉津子は、娘がこの写真とメモをみれば、そこに行くであろうことを予見していたようだ。


バスが市役所の手前でゆっくりと停車した。旧いコンクリート造の小さな建物であるその市役所の厚生課で、その「伊藤さん」の名前を告げ、自らの名前を述べると、介護業務を担当しているという女性が現れる。
どうやら、伊藤柊壱はその女性に長めの海外旅行に出てくると言って、先週から自宅の鍵を預けているようである。


「莉津子さんに良く似ているわね。娘さん、、、かしら。」


田舎らしい、といえば良いのか、少し押し付けがましい好奇心を表情に出しつつ、その担当者は丁寧に話してくれる。
聞いてみると、莉津子は最近、月に一度程度は、柊壱の介護の手伝いという形で、ここを訪れていたようだ。
初老にさしかかろうとする見知らぬ女性と柊壱の関係に、ただならぬ雰囲気を感じていたのか、ついに登場した娘の菜摘見に、その女性は柊壱の自宅への案内を笑顔で申し出た。

主人の不在に、勝手に家に入って良いのか、甚だ疑問に思いつつも、柊壱自身が何かこうした事態に備えて言いつけてあったのかもしれない、などと都合の良いことを考えつつ、菜摘見は、市の職員の巡回などに用いられているという軽のヴァンに乗り込む。

市役所の女性は木内、という苗字だと自分のことを簡単に紹介しつつ、慣れた手つきで車を発進させた。


莉津子は、大学を卒業してからずっと、通訳業を続けている。父の成と結婚して、一人娘の菜摘見が生まれても、比較的ブランクなく仕事に復帰し、出張で家を空けることも屡だった。
だから、菜摘見も父親も、母がどこに外出・外泊していても何ら気にも留めなかったのである。


ヴァンは、市役所から10分ほど市街地を走って、商店街の近くにある県営のアパート前に、足許の路面に少しの振動を受けながら停まった。
入口の門から一番近い棟の階段を上がった2階、202号室に「伊藤」と小さな表札が掲げられている。


ここまでくる道すがら、木内さんは、伊藤柊壱という男性について、知りうる限りの情報を教えてくれた。


伊藤柊壱、62歳。県立高校を卒業後、県内の大学に進学した後、地元の中学校で図書教諭を続けていた。
生来少し身体が悪く、定年を間際に、市から軽度の要介護認定を受け、月に一度自宅に市の職員が訪問している。
線の細い印象の、静かな男性で、一切のトラブルを聞いたことがない。
長期の旅行で家を空けることは今回が初めてで、驚いている、と木内さんは述べた。


預けられていた家の鍵を差し込み、かちゃり、と旧式のシリンダー錠が空く。綺麗に片付けられた、装飾性が排された部屋に、二人で靴を脱いで上がる。
柊壱も莉津子の親族による訪問を予期していたのか、寝室に使っているのであろう和室の押入れの前に、大きなダンボール製のケースが置かれていた。一応、木内さんの許可を取り、菜摘見がケースを静かに開ける。



―― 現れたのは、一冊の卒業アルバムと、きちんと詰め込まれた、優に500通は超えそうな大量の手紙だった。


「そういえば、伊藤さん、ポストだけは毎日自分で見に行っているみたいで、一度も何かがポストに溜まっているのを見たことがなかった気がするわね。」
木内さんが、物の少ない部屋にはやや異様にも見える手紙の束を眺め、声を漏らした。
流石に内容を読むわけにもいかず、しかし簡単に宛名だけ確かめる。
案の定、それは、莉津子から柊壱に対する手紙の山であり、柊壱から莉津子に出せなかった手紙(菜摘見が産まれてから2年分程のようだ)も交ざっていた。

そして、母親が残した写真と同じ場所であると思われる、高校の卒業アルバム。3年分のモノクロの写真群に、ざっと目を通す。


40年以上前の、莉津子と、成と、伊藤柊壱。
莉津子はその町からこのアルバムに写っている県立の高校に通っていた。成と柊壱と莉津子はその町からの同級生のようだ。
当時10クラス以上あるのは当たり前であった高校で、3人のクラスは当然余り同じではなかったのか、そのうちの2人だけでも、同じ写真に写っているのは数枚で、これのみで3人の当時の関係を推定するのは難しい。



「・・・ここの高校は、ここから近いですか?」

アルバムを繰りながら、菜摘見は木内さんに問いかける。今日は既に夕刻に差し掛かっているため、この町の駅前に宿を取り、翌日電車で向かうこととした。
単純な興味が、やや親しげな同情に変わった木内さんは、菜摘見を駅前の小さなビジネスホテルに送り届けることを自ら申し出てくれた。



その町から5駅隣の駅、そこからまた市営バスに20分程揺られ、3人の通った県立高校は、今もそこにある。
ただ、写真で見たような建物は一切なくなっており、3人の背景となっていた建物は今はどこにも見当たらない。ただ、新しい、一部がガラス張りとなったコンクリート校舎だけがある。
肩がけのバッグから、莉津子が残していった写真を取り出して改めて見ると、三人の仲睦まじい当距離の姿が、少しはにかんだ笑顔で写っている。


背が高く、瞳が漆黒の、大人びた成。まだ、少女らしい、美しい莉津子。
莉津子とは頭一つくらいしか背の変わらない、全体的に成と比べて色素が薄い印象の柊壱。


莉津子は、いつから、柊壱の恋人なのだろうか。


莉津子は、なぜ、成と結婚したのだろうか。


父親の利発で律儀な性格を考えると、成は莉津子と柊壱の関係に、薄らと、しかし長いあいだ、勘づいていたのではないだろうか。


数々の、決して答えを得ることは出来ない質問が、菜摘見の喉の奥に現れては、微かな痛みを残して沈んでいく。
菜摘見は、高校の校門の前で一人、深く、息を吸った。


***


2日間の不在の後、東京の自宅に帰ると、成はまた、弁当を買って、菜摘見を待っていた。どこに行っていた、などは成は一切聞かない。焦っている様子もない。
父親は黙って、簡易式の湯沸しポットから、気に入りの焙じ茶を淹れ、菜摘見の目の前にも茶碗を置く。


まだ豊かだが、白髪が多く混ざるグレイに近い頭髪。高校の頃から、年月を経て少し濁り、落ち着いた黒い双眸。真っ直ぐな、背の高い、年齢の割にはがっしりとした長身。今、会社役員の成は、いかにも成功した壮年の男性である。

成は静かに莉津子を待っている。二人の間に菜摘見をもうけた、莉津子と柊壱の間にはなかった時間を莉津子と過ごした自負が、
成に穏やかな冷静を与えている。
菜摘見に成と柊壱の関係性は想像し難いが、きっと幼馴染以上に、大切な間柄なのではないか。
成は、柊壱との関係を大切にしている莉津子が好きで、愛しているのだ。


「お母さんは、多分、帰ってくるよ。」


熱い焙じ茶に口をつけながら、菜摘見は静かに話しかける。


「ああ、多分、いつか、」


食卓に英字の経済新聞を載せて読みながら、老眼鏡越しに、成が応えた。


想像するに、莉津子は、柊壱がもう余り永く生きられないと感じているのだろう。
太陽が眩しくどこまでも陽気なバルセロナの海は、海外旅行が好きな莉津子が、最後に柊壱と見たい場所なのだ。日本に帰ってからも、莉津子は柊壱を看取るまで、柊壱の傍らを離れないだろう。



柊壱からの手紙は、莉津子の私書箱を使って受け取られており、それから3日後くらいに、柊壱のアパートでみた手紙と、ほぼ同じくらいの束が、莉津子が洋服やスーツケースなどを仕舞っている自宅近くの小さな貸し倉庫から見つかった。
菜摘見も成も、それを読むようなことはしない。莉津子と柊壱の、大切な時間は、二人だけのものだ。


***



菜摘見は、今度結婚する恋人を、一生愛し続けることが、無いのかもしれない、と考える。
それでも菜摘見は、今自分が好きな人と、一緒に居つづけることは出来る。それで良いと思う。

10月の結婚式までに、莉津子は帰って来ないかもしれない。
しかし、菜摘見も成も、それに腹を立ててはいない。
莉津子が、愛し続けた柊壱と、今からでは取り戻せないかもしれない膨大な時間を、少しでも埋められるよう、二人は願っている。

018:ハーモニカ

薄曇りの、空気の乾いた昼間。保積千都世は、引越しの荷造りをしていた。
シングルベッドの下に置いていた箱の中で、埃を被ったそれが、鈍く光った。


「千都世、これあげるよ。」


映画館の暗闇から出るときのような、余りに周囲が明るくて、輪郭が曖昧な、十四歳頃の記憶。
その日、大きな湖以外、何もない故郷を、出て行ったその人がくれた、
ちょうど中学生の少女の掌に載る大きさの楽器。

その人は、これを奏でたことがあったのだろうか。きらきらとした銀色のハーモニカ。
フォークソングなんて、もう疾うに流行は過ぎ去っていた頃。
それは、小学校で貰うような丸みのある温かなかたちのものではなく、
細身で鋭利な、線の細い印象を放っていた。

千都世は、その人との時間を土に埋めるように、日の光を良く反射するその楽器を、直ぐに目の届かない場所へ仕舞った。


十数年の時間を経て、千都世は、鈍色になったハーモニカの、良く読めないドイツ語の刻印に、静かにくちづける。

A、の音が、千都世以外誰もいない1DKの部屋に、掠り傷を付けて、昇っていく。

016:シャム双生児(腰が接合した二重胎児)

「離れようと思ったことなんて、一度もないわ。なぜ、皆私たちが離れたいと思っていると考えているのかしら。」


彼女たちはきっと、そんな風に首を傾げたに違いない。




文字通り、生まれた時から、温子は哲史と一緒に居た。
母親同士が大学生の頃からの親友であり、結婚してからの家も近く、当初から姉妹のようにお互いの家を行き来していた。
彼女たちは丁度同時期に妊娠し、当然のように同じ産院に通い、ひと月の差もなく、温子と哲史は産まれた。
遊ぶ公園も同じ、保育園も、小学校も、中学校も同じ。
幼馴染と呼ぶには些か異常な距離感の近さを、互いに異常とも思わずに、当然の如く同じ高校に進学した。
周囲が驚くべきことに、大学まで学部こそ違えども、一流と呼ばれる公立大学に、二人共ストレートで合格したのだ。


温子は何をするにも、哲史とともに育つのが当たり前だった。
幼稚園の子供が、いずれは○○君のお嫁さんになるの、と戯れに云うような可愛いものではない。
中学三年生の時、初めて哲史とキスをし、二十歳になるのを待って、初めてセックスをした。
大学の教養課程が終わり、互いに学部の分かれる三年生からは、互いの実家を離れて都内にアパートを借り、なけなしのバイト代をはたいて、一緒に暮らし始めた。


母親たちは、そこまで一緒に居る二人に、驚きを通り越して半ば諦観のようなものすら抱いている。
家族にも、友人たちにも幾ら「ちょっとおかしい」ほど仲が良い、と言われても、
温子も哲史も、なぜそれが「おかしい」ことなのか、まるで理解が出来なかった。
二人で居れば何よりも安心したし、どんな悩みも共有出来たし、最近は実のところ二人きりの場合は殆ど話さない。
話さなくとも、何となく互いがどんな状況にあるのか、分かっている。


二人が大学を卒業し、就職して一年ほど経った頃のことだ。
会社からの帰りがけに寄った書店で、ある科学雑誌の表紙が、温子の目に飛び込んできた。
それは、腰部が繋がった双子の女の子の写真だった。
母親たちの若かった頃には、シャム双生児、と呼ばれることの多かった結合双生児。
その雑誌は、アメリカの有名な結合双生児の双子の少女について、インタビューを中心に特集していたのだ。
普段は読まない種類の輸入雑誌であったが、表紙の写真に惹かれるように、温子はそれを買い求めて帰った。


社内での大事な会議が間近であったため、ここのところは深夜の帰宅が続いていた。
こうしたすれ違いは学部生の頃から慣れたもので、哲史は既にダブルベッドの片隅で眠りについている。
哲史が作っておいてくれた簡単な夜食を食べながら、温子は購入してきた雑誌の特集欄に目を通し、軽くシャワーを浴びて、哲史の横に潜り込む。


「・・・今日もお疲れ様。」
元々眠りの浅い哲史が、その動作で半分目を覚ましていた。体勢を変え、温子を包み込む。
「うん、ただいま。会議終わるまでは、こんなかんじが続きそう。」
どんなに一緒に寝ても、飽きず深い安心を与えてくれる哲史の大きな体躯にしがみつきながら、呟くように告げる。
ん、と哲史は軽く頷き、再び眠りの淵に落ちていく。


雑誌で読んだ双子の姉妹は、既に十代の後半に差し掛かっており、
周囲から結合部分を切り、体を分離する手術を受けるよう、強く勧められているという。
しかし、彼女たち自身は、離れることに抵抗を示している。


「私たちは、これまでに繋がっていることに不便を感じたことなんてなかったわ。」
「むしろ、何一つ隠し事の無い、自分によく似た『自分』が居るなんて、最高なの。」


彼女たちのインタビューには、快活な台詞が並んでいた。


「みんな、私たちが離れることが幸せだと思っているみたいなのだけれど、
 それは、みんな私たちみたいな感覚を味わったことが無いからだわ。」


温子は、哲史が自分と温子の関係について、「正直ちょっと気味が悪い」と大学の友人に云われたと憤慨していたことを思い出していた。
隣で音も立てずに眠る哲史の顔を眺めながら、もし、哲史と別れることになったら、と想像してみる。
温子は、哲史以外の男性を、好きになったことがない。
哲史は、いつでも温子の一番の理解者だし、温子に対して真摯な姿勢を崩したことはない。温子は、哲史を尊敬しているし、哲史との間に隠し事の一つすらない。
そんな哲史との生活を止めることなど、そうなった温子自身をイメージすることが、ひどく困難であることには、とうに気付いている。


このままずっと、文字通りに死が二人を分かつまで、私たちは一緒だ。


哲史が同じ考えであることは、疑う余地もない。哲史のことは、何でもわかる。


明日目を覚ましたら、朝ごはんを食べながら、哲史に今日読んだ記事の話をしよう。温子は微睡みながら考える。
自分たちを結合双生児になぞらえるなどは、今更チープな話だが、双子の話は妙に温子の心に引っ掛かった。


哲史と自分の関係におかしいことなんて一つもない。自分たちが望み、選び、実行してきたことに、一抹の疑問すらない。


自分たちは、この世界で一番、幸せなつがいなのだ。

015:ニューロン(精神機能を営む構造体)

―― もっと頭が良くなりたかった。


ぱしぱしぱしと、わたしの脳の中で繋がりゆく神経細胞
どこまでも、拡がりゆくネットワークの、樹状の広野。


そんなイメージを抱えながら、眠りに落ちる午后二時。